その日も真夏は夢の中にいた。夢の中で博嗣はいつもの岩の腰掛けて、龍笛を吹いていた。そして、元服前の真夏ー霞若ーは離れたところからその姿を見て、急いでかけて行く。
霞若がそう声をかけると博嗣は笛を吹くのを止め、霞若に目をやった。すると、霞若は着物の袂から竹の笛を取り出した。
博嗣がそっと笛を受けとり、しばらく笛を眺めたあと、そっと唇を近づけ笛を吹いた。
音は浅く、震えていた。それでも博嗣はいい音だと言ってくれるのか。
所詮子供の、しかも不器用な子供が作った竹笛だ。音だって良くはない。それなのに大切にすると言ってくれるのか。それが嬉しくて胸が温かくなった。
そうだ。自分は不器用なのに、竹笛なんてものを作ったのだ。龍笛とは違う浅い音しか出ない笛だ。それでも博嗣は大切にすると言ってくれた。
夢を見ながら真夏は嬉しいと思っていた。これは夢の世界だとわかっていたのだ。
そうして景色は一転する。真夏ー霞若ーは博嗣の腕の中で泣いていた。山を降りたくないと言って。
そう言って博嗣は母の形見である笛を差し出す。何があっても離さなかった母の形見の笛だ。この笛を吹くと母が近くにいるような、そんな気がした。けれど、この笛で霞若が自分を忘れないのならば、この笛は霞若にやろう。
そうだ。風の音だけ。笛の音だけ覚えていて欲しいと思っていたけれど、結局は自分のことも覚えていて欲しいのだ。だから笛を渡す。それで自分のことを忘れないでいてくれるのであれば、大事な母の形見ではあるけれど、霞若になら渡せる。そう言って博嗣は大事な龍笛を自分にくれたのだ。
自分が作った拙い竹笛。そして、母の形見だと言って片時も手放さなかった龍笛。元服で山を降りる霞若に大切な龍笛をくれたのだ。
風が吹き、木々がざわざわと音をたて、景色が白くなってくる。目覚めの時間だ。
真夏は目を覚ました。ゆっくりと目を開け、見ていた夢を思い出した。音の浅い不格好な竹笛。綺麗な音を奏でる龍笛。龍笛は霞若が貰った。ということは霞若が山を降りた後に博嗣が吹いていたのは霞若が作った笛だということだろうか。いや、でもあれから千年以上が経っている。もう新しい笛があるだろう。それでも、自分が渡した竹笛は手元にあるのだろうか。いや、それこそ千年以上も経つのだ。もうないだろう。
けれど、夢の中でも現実ででも笛の音を聞いているのに、何故今まで笛のことを思い出さなかったのだろう。でも、これで全て思い出した。博嗣との出会い、霞若が山を降りるまでの2人。元服して真夏となり、兼親と友人として過ごしていたこと。鬼狩りがあり、内緒で山に入り博嗣を庇って矢に射たれ死んだこと。全て全て思い出した。
カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の中を静かに照らしている。空は青く、夏の空の色をしている。外からは車の音、電車の音、人の気配、そんな物が部屋に入ってきて、ここが東京なのだと思い知る。そう、これがいつもの東京の朝だ。けれど、真夏の胸の中には全く違う「新しい朝」が訪れていた。
目が覚めた瞬間、全てが静かに繋がっていた。夢で見てきた断片、胸の奥に残っていた感情。そして言葉の余韻。それらがひとつに結びつき、過去と現在が地続きの記憶として存在していることを真夏はようやく理解した。
霞若と呼ばれていた自分。博嗣と過ごした日々。そして、博嗣を庇って矢に射たれた最期の場面。全身が震えるような感覚と共に、それが”夢”ではなく、”過去、確かにあった現実”として受け入れている。
真夏はゆっくりと体を起こし、まだ早朝の空気が残っている部屋の中で洗面所へと行った。
鏡の前に立つ。そこにはぼんやりとした寝起きの顔が映っている。その中で何よりも変わったのは目だった。昨日までのどこか曇ったような目ではなく、そこには過去と現在の両方を見つめる眼差しが宿っていた。
静かに、けれど確かな決意を込めて鏡の中の自分にそう誓う。もう逃げない。もう夢の中だけで満足したフリはしない。博嗣に、自分の意思で会いに行く。過去を思い出して、それでも彼の前に立ちたい。
夢の中で博嗣は言った。「全てを思い出したら現で会おう」と。その言葉が真夏の胸の奥で静かに灯っている。約束のように。あるいは再会のための鍵のように。
顔を洗い、冷たい水で肌を引き締めると、不思議なほど心が落ち着いていた。昨夜までのざわめきが嘘のようだった。記憶を思い出したことは痛みを伴うはずだったのに、今はどこか温かい。
かつての記憶の中、山を降りる前の夜。博嗣が自らの龍笛を霞若に手渡した。
そう言った声と表情を真夏は今も鮮明に思い出せる。けれど、あの龍笛はもう手元にはない。なにせ千年以上も前のことだ。現代に残っているはずもなかった。それでも不思議と喪失感はなかった。なぜなら、あの瞬間の想い――交わされた言葉と託された願いは、形あるもの以上に確かに心の中に残っていたから。
声に出してみると、それが紛れもない真実だとわかる。記憶という引き出しの奥に、夢の断片にあの人の影はずっとあった。それを無意識のうちに探していた自分に、ようやく気がついた。
コーヒーメーカーのスイッチを入れると、コーヒーの良い香りが立ち上がる。いつもの朝と変わらないルーティーン。けれど、違うことがひとつある。それは”再会へ向かう朝”だ。
大江山から帰ってきたばかりだけど、全てを思い出した今、早く戻りたい。今日、1人でまた大江山へ向かう。自分の足で、あの場所へ。祠のあるあの山へ。夢で見た、博嗣が真夏のために建ててくれたあの場所へ。きっと迷うことなく行かれるはずだ。
彼がどこにいるのかはわからない。けれど、あの祠へ行けば会えるはずだ。だって、夢の中で教えてくれたのは彼だ。
真夏は小さくそう呟くと、マグカップにコーヒーを注ぎ、両手で包み込んだ。朝の光が部屋の中に差し込み、その背を静かに後押ししているかのようだった。
朝の光がカーテン越しに部屋を満たした頃、真夏はゆっくりとスマホを手に取り、兼親に連絡を入れた。「今日、少しだけ会えないか」と。
結局、兼親とは兼親のバイト前の時間に会うことになった。向かったのはいつも2人でよく利用していた静かなカフェ。まだ開店して間もない時間で、客はまばらだった。窓際の席に座ると、店内に漂うコーヒーの香りが、ほんの少し緊張を解いてくれた。
そう言って兼親は穏やかな表情でカップを持ち上げる。真夏はその表情をしばらく見てから静かに口を開いた。
そう言う真夏の声は、まるで本の中の物語を語るように淡々と静かに、けれどしっかりと芯のある声だった。兼親はそれを聞いて、1度瞬きをし、それから少し目を伏せて微笑んだ。
真夏は驚いてカップを持とうとした手を止めた。兼親の声は静かで、そこに嘘はひとつも感じられなかった。
コーヒーの香りが2人の間の静寂にそっと滲む。
兼親のその言葉に、真夏の喉が詰まる。胸の奥に、ゆっくりと熱が広がって行く。理解されることの温かさと、深く静かな悲しみが、涙になりそうで、ぎりぎりで堪えた。
2人は黙ってカップを口に運ぶ。窓の外ではビルの隙間を朝の風が通り抜けていく。ほんのひとときの時間が、何よりも尊く思えた。もう言葉はいらなかった。兼親は全てを知り、そして受け入れてくれていた。それだけで真夏の足はもう、どこまでも進める気がした。
そう言ったきり兼親はもう口を開かなかった。