夢の中。風ひとつない静かな山。聞こえるのは、真夏が足元の落ち葉を踏む音だけだった。周囲は深い霧に包まれていて、少し離れたところさえ霞んで見える。
今、真夏がいるのは、大きな岩のすぐ傍だった。そして、目の前には銀色の髪の人――博嗣だけだった。昔と違いTシャツにGパンという今どきの格好で、Tシャツを着た鬼って面白いな、などと暢気に思っていた。
しばらくは会話もなく、ただ静か互いの姿を見ているだけだった。沈黙を破ったのは真夏だった。
一応疑問形にしてみたのは意味がない。目の前の博嗣を庇って、そして矢で射たれた自分を見て彼は自分のことを”真夏”と呼んだ。
真夏と呼ばれた自分は髪を結い上げ、烏帽子を被っていたので今とは印象が少し違うけれど、あれが自分なのは自信を持って言える。だからあれは間違いなく、過去ー平安時代ーの真夏なのだ。
そして博嗣はあの頃と何も変わらなかった。銀の長い髪を垂らし、白い着物の上に色のついた単衣を着ていたが、今は今どきらしい格好をして、銀色の髪は後ろでひとつに結んでいる。
今までは過去を見ていたから、博嗣は着物を着ていた。でも、今日は違う。今の時代の博嗣と真夏だ。
博嗣は、真夏の言葉を聞いて唇を噛みしめて、言葉を発しない。ただ、その表情から悔しさとも悲しさとも言える感情が垣間見えた。そして、やっと言葉を口にした。
悲しさに沈んだその瞳は、きっと心の中で、あの真夏が矢に倒れたことを思い出しているのだろう。平安時代から今まで、この人は何度思い出したのだろう。それを思うと真夏は胸が苦しくなった。
真夏はいい。死んでしまった側なので苦しさはない。けれど、博嗣は残された側だ。残された側の苦しさ、辛さ、悲しさは真夏が考えているよりもずっと辛いだろう。まして、それを共有できる相手がいないのだ。平安時代から今まで。千年以上の時が流れている。その間、1人でずっと思い出していたのだろう。
そう言えば、自分は生まれ変わりだけど、この人はどうなのだろう、と真夏は考えた。人間の寿命は長くても百年だ。でも、鬼はどうなのだろう。なんとなく、あの頃からずっと生きているような気がした。真夏が記憶を思い出したと言った時の顔が、自分も記憶を思い出したものだとはなんとなく思えなかった。
唇を噛みしめて辛そうな、悲しそうな顔をするのを見ていると、それは本心ではあるだろうけれど、それだけではない気がするのだ。それとはまた別の本心があるのだと。
それは今の自分が彼に差し出せる覚悟だった。
この人は千年以上、1人で辛い思いをしていた。けれど、これからはもうその辛さを味わわなくていい。自分が傍にいることで、笑顔を見せて欲しいと思う。スッと鼻筋の通った綺麗な顔をしているから、笑ったらきっととても綺麗なはずだ。そんな笑顔を見てみたいと真夏は思った。
真夏の言葉に博嗣は静かに考えていた。
真夏の言葉に博嗣は静かに目を閉じた。霧の中、時が止まったように2人は立ち尽くす。風もない。音もない。けれどその沈黙は冷たくも重くもなかった。ただ静かで、優しく痛みを含んでいた。
やがてぽつりと博嗣が言った。
その言葉に真夏は胸が痛くなった。自分が生まれ変わって、何も思い出さずに兼親と平凡だけど楽しい生活を送っていた時、博嗣はたった1人で過去に取り残されたままだったのだ。そう思うと胸が痛くなるのも当然だった。
博嗣はそう言って視線を落とし、指先で何かを確かめるように手を握りしめる。
声が掠れていた。角のある鬼の姿をしていても、その孤独と悔しさは、人間のそれと全く変わらなかった。
真夏が一歩踏み出す。足元で落ち葉のカサリという音がした。
博嗣は顔をあげた。その目には深い迷いがあった。それでも、真夏の瞳を見つめ返し、しばしの沈黙ののち、静かに言った。
それはひとつの条件であり、約束だった。過去の全てを背負った上で、それでもなお自分を選んでくれるのか。その答えを博嗣は求めていたのだ。真夏はその言葉をしっかりと受け止めて、深く頷いた。
その時、霧の向こうで風が吹いた。どこかで笛の音が響いた気がして、真夏は目を細めた。
静かな霧の中で交わされた約束。「記憶を全て取り戻したら会おう」という言葉を胸に真夏は静かに頷いた。その時、博嗣がふと視線を遠くに移した。霧の向こうに何かを見ているようだった。
真夏が聞き返すと、博嗣はゆっくりと歩き出した。ためらいがちだった足取りが、次第に確かなものになっていく。真夏もそのあとついていく。2人が踏む落ち葉の音だけが世界にあった。
霧が少しずつ晴れていく。風もないのに不思議と視界が開けていくようだった。木々の間を抜けると小さな沢が現れ、その傍にぽつんと小さな祠が見えた。苔むした石段が、わずかに斜めに崩れかけている。それでもどこか清らかで穏やかな空気に包まれていた。
祠は木に守られるようにして立っていた。小さな石の囲いがあり、そこに真夏が跪くと、確かに胸の奥が熱くなった。懐かしさともなんとも言えない感情がこみあげてきた。
博嗣の声は低く、けれど確かだった。真夏は手を伸ばし、祠の扉にそっと触れた。霧の冷たさと、そしてどこか懐かしい感触だった。
祠の横には笹が植えられていた。風に揺れる笹の葉が、さらさらと音をたてる。その音に混じって、どこからか笛の音が聞こえた。振り返ると博嗣の手の中に一本の笛があった。それは、どこかで見たことがあるような気がした。
2人の間に静かに霧が戻り始めていた。現実の夜明けが近いのだろう。夢の中の空が少しだけ明るみを帯びていった。
言葉の続きを聞くより先に、視界が白く揺らいだ。霧が全てを包み、風がさらりと吹き抜ける。
気がつくと真夏はベッドの上にいた。そこは真夏の部屋だった。
胸の奥には、あの祠の景色が焼き付いていた。苔むした石段、祠の横で揺れる笹。そして笛の音。全てが夢のはずなのに、あまりに鮮やかだった。
静かに呟いたその声に、自分自身が背中を押された気がした。
兼親のバイト終わりに、2人でファストフード店に来た。2人の今日の夕食だ。真夏はダブルチーズバーガーを、兼親はダブルバーガーを選んだ。それでもお腹の空いていた2人は、会話をするよりも先にバーガーを食べ終えてからやっとポテトをつまみながら話し始める。
真夏の話の続きが気になり、兼親はポテトをつまむ手が止まった。
真夏が嬉しそうに頷くのを見て、兼親は複雑な気持ちになった。真夏の夢に繰り返し現れる人(鬼)は現実にいる。だから、真夏が記憶を全て取り戻したら会える。それはとても嬉しいことだ。真夏は小さい頃から夢を繰り返し見ていた。それは兼親も知っている。だから真夏のことを思えば嬉しい。だけど、それと同時に寂しいと思うのだ。真夏は全てを思い出したら行ってしまう。そうしたらもう会えなくなってしまうのではないか。そう思うと寂しいのだ。
考えていたことが全て顔に出ていたらしい。それなら聞いてしまえ。そう思い、兼親は素直に真夏に聞いた。
真夏がその言葉を発した時、兼親は胸が苦しくなるのを感じた。真夏が行ってしまう。行ってしまったら、こうやって会うことは出来なくなる。何気ない話をして、笑って……。そんな当たり前の、今まで何回となく繰り返していたことが出来なくなってしまう。けれど、兼親がそう考えていることに気づいたかのように真夏は言った。
会えなくなることを寂しく思うのは自分だけじゃない。そう思うと少し嬉しかった。子供の頃から今まで。ずっと隣にいたのだ。いなくなることが寂しくないはずがない。
そう頷く真夏の表情は明るく、現実で会えることを楽しみにしている様子が伺い知れた。真夏が山へ行っても会えるにしても、もうこの関係は変わってしまう。真夏の隣にいつもいることは叶わなくなる。2人の関係が大きく変わってしまう。そう思うと、やはり悲しいなと兼親は思った。