茶屋を辞して外に出ると、空はいつの間にか淡く暮れ始めていた。山の端に太陽が沈みかけ、木々の影が長く伸びている。真夏はゆるやかな下り坂を宿へと歩き始めたが、その足取りはおぼつかなかった。心が追いついていなかった。
あの老女が語ったのは、ただの昔話ではない。実際にその姿を見たかのような口調だった。そして何よりその語る鬼は、夢の中に現れるあの人の姿そのものだった。
偶然とは思えなかった。何も知らない土地で、幾度も夢に見た人物の言い伝えを聞くなどということがあるはずがない。そんなふうに片付けられる話しではなかった。
肩が微かに震えていた。緊張か興奮か、あるいは恐れか。どれも混ざって自分でもよくわからなかった。ただ胸の奥で確かなものが形を持ち始めていた。
――自分はあの人を知っている。
名を思い出せずとも、過去が完全に思い出していなくても、それだけは確信できた。夢で交わしたあの言葉も、指先が触れかかった温もりも、どこかで本当に経験したものなのだ。
宿までの道は一本道で、森の縁を沿うように続いている。誰ともすれ違わず、聞こえるのは虫の声だけだった。
風が吹いた。涼しい夜の風。少し首をすくめたその瞬間、ふいに懐かしい香りが鼻先をかすめた。沈香と丁子、龍脳の香りだった。
ふと立ち止まる。何の前触れもなく、それは流れてきた。誰かがすぐそばで香を焚いているわけではない。なのに間違いなかった。あの、夢の中で何度も感じた香りだ。
その香りは、まるで記憶の扉を叩くように、真夏の胸をじわりと締め付けた。
何度も夢で出会ったあの人の気配。風の向こうにいるかのような錯覚。思わず辺りを見渡すけれど誰もいない。ただ風が木々の枝を揺らし、薄闇が空へと広がって行くばかりだった。
独り言のようにこぼれた声に、自分の震えが乗っていた。目の奥が熱くなる。気づけば涙が浮かんでいた。理由なんてなかった。香りに反応したのは心が覚えていたからだ。あの人のそばにいた時間。夢ではない。現実で過ごしたあの頃。まだ思い出せない記憶の底から、それだけがぽつりと浮かび上がってきた。
真夏は足を止め、そっと目を閉じた。すると、不思議とその香りがもう一度ふわりと漂ってきた気がした。
そんな確信にも似た思いが、心の底から湧き上がる。夢の中で交わした、「全て思い出して、それでも望むなら」というあの人の言葉が蘇る。
自分がここまで導かれてきたのは偶然ではない。東京から遠く離れたこの山間の町で、何故か引かれるように博物館を訪れ、彼の姿を目にし、笛の音に心を掴まれた。そして今日、昔語りの中にあの人の名残を見つけた。もう迷わない。記憶が完全ではなくとも、気持ちはもう決まっていた。あの人に会いに行く。夢ではなく現で。例え過去に何があったとしても。
宿の灯が遠くに見えた。淡い明かりが、少しずつ近づいてくる。真夏はその光を目指して歩き出した。足元はまだ少しふらついていたけれど、胸の中にはひとつの思いが確かな輪郭を持って灯っていた。
風が吹いた。木々がざわりと音を立てる。
凜とした声が山の気を震わせる。射手たちの動きが止まる。誰もが戸惑い、どうしていいのかわからないようだった。その中で、真夏だけは一歩も引かなかった。緋の狩衣が風に揺れ、白く細い指先が小刻みに震えている。それでも彼は確かにその身を鬼――博嗣の前に差し出していた。
言葉のひとつひとつが血のように重かった。自分の名と家柄を口にすることが、この時代でどれほどの意味を持つかを知っていた。それでもためらわずに名乗り、庇った。
風が止む。葉ずれの音も、鳥のさえずりも、全てが凍り付いたようだった。だが、沈黙を破るように、新たな一団が山道を駆け上がってきた。陰陽寮に属する者たちが率いる武士たち。彼らは真夏の言葉など意にも介さず、声を張り上げる。
引き絞られる弓弦の音が、山の静けさを引き裂いた。空気が震える。
博嗣が目を見開き、叫ぼうとする。その唇が真夏の名を形作ろうとする、その一瞬――矢が放たれた。鋭い風音と共に、それは一直線に真夏の胸を貫いた。緋の狩衣が破れ、赤が広がる。まるで花が開いたように静かに、しかし確かに。命の色がにじみ出る。
真夏は小さく息を吐いた。「……あ……」と。
膝が崩れ、博嗣の腕の中へと落ちて行く。
絶叫のような叫び声。博嗣はその場に膝をつき、震える腕で真夏を抱きしめた。その体は驚くほど軽く、温かかった。しかし、温もりは少しずつ奪われていく。
掠れた声が博嗣の耳元で囁く。微笑む唇は血に濡れていた。
白く細い指が、そっと頬に触れる。その指先が今にも消え入りそうに震えていた。
博嗣の叫びに、風が再び吹き荒れる。山が泣いているかのように木々がざわめき、霧が一層濃くなる。
――その叫びを引き裂くように真夏は目を覚ました。
息が荒い。胸が苦しい。夢の中で矢を受けた痛みが、今もそのまま残っているかのようだった。額にはびっしょりと汗が滲み、喉はからからに渇いている。
言葉にならない声が漏れた。視界が滲んでいる。気づけば頬に涙が流れていた。枕は既に濡れている。熱くもなく、冷たくもなく、ただただ静かに涙だけが流れ続ける。
夢――なのに、現実のようだった。
いや、むしろあれは”記憶”なのではないかという感覚が、心の奥でじんじんと疼いていた。名を呼び、庇い、そして矢を受けた自分。抱きとめ、叫ぶあの人。
胸に残る重み。微笑みと温もり。そして「博嗣さま」と呼ぶ自分の声――その響きが耳の奥に残っている。名前を思い出した。
目を閉じれば、再び霧の中に戻ってしまいそうだった。
初めて口にした本音だった。
夢の中の彼に、ではない。かつて命をかけても守りたかったあの人に。記憶の彼に。そして、今もきっとどこかで生きている”博嗣”という存在に。
真夏は胸元を押さえ、布団の中で小さく身を丸めた。夢で流した涙が、目覚めた今も止まらなかった。胸の奥で疼くのは矢の痛みではない。きっと、まだ思い出しきれない過去と再び会いたいという願いが、形になれずに溢れているのだ。
朝。町はまだ静かで、遠くで鳥のさえずりが聞こえるだけだ。
真夏は洗面台の前に立ち、鏡の中の自分と向き合っていた。夢で起きて寝不足感は否めないけれど、その瞳には昨夜までにはなかった静かな決意が宿っていた。
ぽろりと口からこぼれた言葉に頷く。
昨夜見た夢――いや、記憶だ。あれは断片ではあるけれど、”かつての自分の最期”だった。矢を受け、博嗣の腕の中で命を落とした自分の姿。
思い出せずにいた名前が、もう自然に口にできる。
――博嗣さま
あの人は鬼だった。人ではなかった。それでも自分は彼を庇った。命をかけて守った。その想いだけは、時を超えても確かに自分の中に生き続けていた。
そう呟いて、鏡の中の自分を真っ直ぐに見返す。もはや迷いはなかった。
真夏は静かに洗面所を離れ、荷物をまとめ始めた。まだ山へは向かわない。今は1度東京に戻る。それが、再び大江山に入るための準備になると感じていた。
宿で朝食を食べるとすぐに電車に乗り、東京を目指した。
車窓の向こうに見慣れた景色が見えてくる。山の稜線、田端の緑、時折現れては過ぎて行く家々の屋根。真夏はぼんやりとそれらを眺めながら、新幹線の振動に身を任せていた。
体の疲れはまだ抜けていないけれど、心は静かだった。妙な焦燥も、混乱もない。ただ、どこか遠くの方で何かが収まるべきところに収まった、そんな感覚があった。
守ろうとして死んだこと。それは真実だと自分の中で揺るぎなく感じる。昨夜の夢は映像のように、頭の中で何度も再生された。矢の音、緋色の狩衣に滲む血、抱きとめてくれた腕の温もり。そして彼の泣き声。
あの人は確かに鬼だった。けれど、恐ろしい存在ではなかった。あの人の瞳の奥には、寂しさと、優しさと、深い悲しみがあった。
真夏は小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。
夢で見た景色に今度は現の世界で、自分の足で行く。夢通うのではなく、現実のあの人に会う為に。
列車がトンネルに入る。一瞬、景色が消えた。窓に映るのは真夏自身の顔だった。静かな目をしていた。夜の涙の跡も、よく眠れなかったことも、もう遠い過去のことに感じる。今朝方のことなのに。
トンネルを抜けると、眩しい光とともに視界が開ける。そこには変わらず流れ続ける風景。けれど、心の中はほんの少し変わっていた。
やがて東京が近づく。真夏は鞄の中にある資料のファイルに目を落とす。博物館で見た展示、民話の断片、そして山の伝承。それらを繋ぎ合わせれば、過去の自分と彼の記憶がもう一段深いところで結びつく気がした。
ほとんど思い出した。でも、まだ思い出せていない何かがある気がした。けれど、思い出すことに恐怖はない。全て思い出したらあの人に現で会えるから。
――千年を超えて、もう一度会うために。