真夏は本当に鬼がいるのかと、再度鬼について調べた。
銀髪の人は自分のことを鬼だと言っていた。けれど本当に鬼だなんているのかと振り出しに戻って、再度図書館へと足を運んだ。
図書館の静かな書庫の奥、一冊の古い民俗誌。真夏はそれを手に取った瞬間、何かに引き寄せられるような感覚を覚えた。
ページを捲ると、そこには山間に現れたという「白き髪と赤い瞳を持つ鬼」の伝承が記されていた。
鬼は人の言葉を話し、笛の音で風を呼び、誰とも交わらず1人で山にいたという、その描写に夢に現れる銀髪の人の姿が重なった。
普段は黒い瞳だけど、角が見えていたときは記述の通り赤い目をしていた。この民俗誌を信じてもいいのだろうか。
大江山の鬼の交流博物館ではこういう伝承はなかっただろうか。わからない。ただ、展示では古い伝承本などは閲覧することはできなかったので、そういった記載があるのかは不明だ。そうだとしたら、東京で調べることは限界なのではないか。真夏はそう思い、再度大江山に行くことに決めた。
大江山に行くことは兼親にはメッセージで伝えた。次回の伊勢参りの為に最近はバイトに忙しいから、今回は真夏1人で行くことにした。
再び訪れた大江山は、前回と同じはずなのにどこか違って見えた。空の色、鳥のさえずり、風さえも微妙に変わっているように感じる。それは自分の心が変わったからだろうか。
宿にチェックインすると、荷物を置いてから日本の鬼の交流博物館に足を運んだ。以前と変わらぬ館内。受付の人に軽く会釈をして中に入る。
前はただの伝説として受け止めていた展示が、今は別の意味を帯びて迫ってくる。言葉にならない胸のざわつきと静かに脈打つような期待感が、全身を支配していた。
心の中でそう呟いた瞬間、夢の中で嗅いだあの香り――沈香と丁子、そして龍脳がふわりと鼻腔をかすめた。
現実にそんな香りが漂っているはずがない。けれど、館内に染みついたような香木の残り香が、夢の断片を呼び起こす。
展示室の奥。手書きの図絵とともに紹介されていた古い伝承に目が止まる。そして真夏が一番知りたいことが記されたページが開かれている。そこには「山奥に現れる異形の鬼」の記録が記されている。赤い瞳、銀の髪、夜の静けさを裂く笛の音。まるで自分の夢が文章になっているかのようだった。
鬼は人語を解しながらも決して人里に姿を現さず、山の霧の中にのみ、その姿が見られたと記されている。その鬼は争いを好まず、ただ1人で生きていたと――
真夏は思わず、ガラス越しの展示に触れそうになった。
――これはあの人だ。
全身に鳥肌が立つ。どこまでも静かに、けれど確かな実感が背筋を這った。もう、偶然とは思えなかった。あの夢は何かの記憶なのだ。あの人は夢の中の幻なんかじゃない。
ふと、そばのパネルに貼られていた古地図に目をやる。そこには山中に”鬼穴”と書かれた地点があり、さらに小さく「笛の音が聞こえる」と注記が添えられていた。その瞬間、心の底に沈んでいた何かが浮上してくるのを感じた。
――あそこへ行かなければ。
自分は、再びあの場所へ導かれている。呼ばれている。香りと夢と記憶の全てがその一点に集束している気がしてならなかった。
誰に聞かせるでもなくそう呟いた真夏の胸には、静かで確かな決意が芽生えていた。次は夢の続きを見に行くのではない。現実の中で”あの人”に会いにいくのだ。
博物館を一通り見終え、出口に向かって歩いているところだった。ちょうど館の外で休憩していた年配の男性が真夏に気づいて会釈をしてきた。観光案内の札を首から下げていて、地元のガイドのようだった。真夏も軽く会釈をすると、自然に会話が始まった。
その言葉に真夏はどきりとした。
男性は目を細めて、遠い記憶を探るようにしばらくだまったあと、ぽつりと言った。
その瞬間、真夏の胸が強くざわめいた。それは夢の中で何度も聞いたあの笛の音と印象は同じだった。
真夏は胸の奥が不意に締め付けられるような感覚に襲われた。
夢の中で何度も聞いた音――遠くから微かに響いてくる、悲しげで、でもどこか温かく、懐かしさを帯びた笛の音。その旋律が年配の男性の言葉とぴたりと重なった気がした。
真夏が勢いづいて訊くと、年配の男性は一瞬びっくりした顔をしたが、しばらく考えてから教えてくれた。
手を合わせる。その言葉に真夏の中でひとつの映像が浮かび上がる。
夢の中、銀色の髪の人が岩の上で笛を吹いていた。その姿を見て、|鬟《みずら》を結っている男の子が両手を合わせていた映像だ。
これは、過去の記憶なのか。手を合わせているあの子は自分なのだろうか。恐らくそうだろう。
それを聞いて真夏は大江山の地図を鞄から取りだし、言われた辺りを探す。
あの笛の音は現実に存在していた。夢の中だけのものではなかった。その事実に、現実と夢の境界がゆらりと揺らぐような不思議な感覚に陥る。
男性はそう言って笑う。
もっと詳しい人がいる。その言葉に真夏の胸は弾んだ。もっとあの人のことが聞ける。そう思うと嬉しかったのだ。あの人は1人じゃないと言われているようで。
そして男性は館内へ入って行った。
博物館を出て、心臓をどきどきとさせながら宿へと戻った。あまりにもどきどきしていて、夕食の味もよくわからなかった。
風呂に入り、寝る準備をするけれど、明日が楽しみなようなそうでないような感覚ですぐには寝つけなかった。最も、そんなに朝早くに訪ねるわけではないので、朝食をギリギリの時間に食べても間に合うから、少しぐらいの寝坊は大丈夫だけれど。
そんなことを考えていると、東京から来てすぐに博物館へ行ったことで疲れていたようで、しばらくすると寝てしまっていたようだ。そして、夢の中にいた。
深い霧が立ちこめ、足元の落ち葉がしっとりと濡れている。どこからか風が吹き抜け、その風に乗って笛の音が聞こえてきた。
――あ。
木々の間から見える大きな岩に銀色の髪の人が座って笛を吹いていた。目を伏せて吹いていたけれど真夏の気配に気づいたのか、笛を吹くのを止め、真夏を見やった。
真夏の言葉に銀色の髪の人は静かに目を伏せた。霧の向こうで木々がざわめく。その気配の中に、どこか切なさが混じる。
低く押し殺したような声だった。彼は一拍置いて、真夏を見つめ返した。赤い瞳が、まっすぐ心の奥を見透かしてくるようで、真夏は思わず息をのんだ。
彼の手が霧の中でふわりと伸びた。触れられそうで触れられない距離。あと少しで届く気がして、真夏もそっと手を伸ばす。
その瞬間、霧がさざ波のように揺れて、世界がぼやけた。
――目が覚めた
天井の木目が揺れているように見えたのは、夢から現実に戻った直後だったせいかもしれない。真夏はそのまま掛け布団の中でじっとしていた。
指先がかすかに熱を帯びている気がする。夢の中で、あの人の手が触れかけたせいだ。もちろん、現実には触れてなどいない。けれど、その温もりのような感覚が確かに残っていた。
ぽつりとこぼれた言葉が、1人の部屋に落ちた。
けれど、確実に思い出しかけている。彼の声、瞳、あの山の空気。そして何より、何度も夢で交わしてきた言葉の数々。
夢の中の彼が、何度も問いかけてきた。「それでも会いたいか」と。「思い出したら変わってしまうかもしれない」と。
名前も、顔以外の記憶は、まだはっきりとは戻っていない。でも、あの人にまた会いたいという気持ちだけはどんどん強くなっている。
スマートフォンの時計を見ると、朝食の時間までもうあまり余裕はなかった。これど体を起こす気になれず、しばらく夢の余韻に浸っていた。
次に夢を見た時には、今より少しだけでも何かを思い出せているだろうか。あるいは、あの人の名前をやっと呼べるだろうか。
そんなことを思いながら、真夏はやっと布団から起き、窓の外をぼんやりと見つめた。薄く雲が流れる空が、少しだけ夢で見た霧の色に似ていた。
山を降りた集落の小さな茶屋で地元の案内人に紹介されて老女と対面したのは、昼を少し過ぎた頃だった。
茶屋の奥にある畳敷きの座敷で、真夏は湯飲みを両手で包みながら老女の前に座っていた。
皺だらけの手で急須を持ち上げながら、老女は穏やかに言った。
その言葉に真夏は息をのんだ。民話や伝説のような感じではなかった。まるで本当に、昨日までそこにいたかのように語る声色だった。
老女の語り口は静かで、語るというより記憶をなぞるかのようだった。真夏は心のどこかがざわつくのを感じながら、夢の中のことをぽつりぽつりと話し始めた。
山に立ち込める霧、湿った落ち葉の感触、そして――笛の音。霧の中に佇む男の姿。銀の髪に赤い瞳。名前はまだ思い出せないのに、その姿だけははっきりと覚えている。
真夏が口を閉じると、老女はしばらく黙って湯飲みに目を落としていた。だが、やがてふっと目を細めて静かに頷いた。
真夏の背中に、ぞわりと冷たいものが走った。心臓が、つかまれたように跳ねる。
頭の中で、夢の中の彼の姿が鮮やかに蘇る。木々の間に見えた横顔。唇にあてた笛。目を伏せたまま、音だけで心を撫でてくるようなあの旋律。
まるで夢が現実を追いかけていたのか。あるいは現実の記憶が夢の形を取って現れたのか、わからない。けれど、あの人はただの夢ではない。確かな”過去”の存在なのだと真夏は直感した。
真夏が尋ねると、老女は少しだけ視線を上に向けた。遠く、記憶の彼方をみるような目だった。
老女の言葉に、真夏は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
――記憶。
そうだ。自分はまだ全てを思い出していない。彼の名前も、自分がその”鬼”とどんなふうに出会い、何を交わしたのかも。でも、確かに今も夢を通して繋がっている。そして彼は言った。「全てを思い出したら会おう」と。
真夏は膝の上に置いた手をぎゅっと握った。夢に揺さぶられるだけじゃない。自分の足で歩いて、探さなければならない。記憶の続きを。約束のその先を。
茶屋の座敷に午後の光が差し込んでいた。湯飲みの中で、お茶の水面が静かに揺れている。老女はもう何も言わず、ただ黙って真夏の決意を見守っているようだった。