EHEU ANELA

香戀歌〜千年の時を越えて〜

選んだ未来 2

足元の土がわずかに沈む感覚とともに、真夏は一歩結界の内側へと足を踏み入れた。

空気が変わった静寂の中に、音にならない気配が満ちている。夕暮れにも似た光が、山の輪郭を染め、木々の葉が鈍く光を反射している。時間がずれたような感覚。ここは現実とは違う。けれど確かに「在る」場所だった。

足元には霧が広がっている。周囲の景色も、少し先を見ようとすれば霞んでしまう。時間が止まったような重苦しく、それでいて優しい空気。その相反したような感覚はおかしいと思うはずななのに、決しておかしくはない。むしろ、それがこの場所の”自然”なのだと感じた。

そして、もう少し先へと進むと霧の向こうに、誰かがいる気配がした。いや、”誰か”なんて言わなくてもわかっている。だって、この結界の中にいる人は限られている。普通の人間がいるはずがないのだ。それなら、なぜ自分は入れたのだろう。それはわからなかったけれど、きっとあの人がいるからだろう。

さらに一歩一歩足を進めると、濃い霧の中、岩の上に佇む人影はもっとはっきりと見えた。銀色の長い髪、白いシャツ、黒いパンツ。服装こそ違うけれど、あの人であることに間違いない。そして今は結界の中だからか角は見えるし、瞳は赤い。夢の中では着物を着ていたけれど、それは真夏が見てわかるようにだったのだろう。けれど、今は違う。今日、真夏が来ることは知らない。だからいつもの服装なのだろう。それに、見間違えるはずがなかった。だって、先ほどから沈香と丁子、龍脳と言った博嗣からいつも香っていた香りがするから。千年前から変わらぬままそこにいる。

博嗣はどこか遠くを見ている。真夏がいることには気づいていない。霧が濃いのだからそんなに遠くは見えないだろうに、と思う。見ているのは今、現在の何かではなく、過去の何かなのだろうか。なんとなくそんな気がした。そしてその横顔には、なんだか簡単に声をかけてはいけないような気がして、真夏は声をかけられなかった。そう思って、声をかけずに、黙ってその横顔を見ていた。

辺りは静かだった。風も止み、鳥の声さえ聞こえない。怖いくらいの静寂に包まれていた。

こんな風に黙ってその横顔を見ていることなんて、千年前にもなかったように思う。千年前の、元服前の自分は、遠くから博嗣の姿が見えると嬉しくて、すぐにその名を呼んでいた。会えることがただ嬉しかったのだ。そして、元服を機に山を下りて都へと行き、夢通うようになった。ああ、その頃は綺麗な横顔を黙って見つめることはあっただろうか。それでもやはり、早くこちらを向いて欲しくて、声をかけていた気がする。千年前の鬼の博嗣と、今の博嗣。変わったのは服装だけだろう。その髪も、目もあの頃と変わらない。

今、声をかけたらびっくりするだろうか。帰れというだろうか。でも約束した通り全部思い出したから会いに来た。


「あなたに会うため、ここまで来たんです。ここで、あなたと生きるために」

心の中でそう繰り返す。そして、こちらに気づいてくれないかなとその横顔を見て思う。あなたに会いに来ました。だから、気づいて。

霧の中を真夏はゆっくりと進んだ。足元の霧は濃く、踏みしめる土の感触すらどこか現実離れしている。けれど、その一歩一歩は確かだった。自分の意思で歩いている。それだけははっきりしていた。

濃い霧の向こう、岩の上に見える姿は夢で見たあの姿とは少し違う現代的な服装だけど、その佇まい、その気配、そして微かに香る沈香と丁子、龍脳の混じったあの香りは千年前と同じだった。

霧の向こうから、その人がゆっくりとこちらを振り返った。顔が見える。目が合う。博嗣だ。目が合った時、その目がほんのわずかに揺れたように見えた。信じられないものをみたような。けれど、すぐに深く飲み込んで、理解したかのようなそんな色。


「来たのか」

博嗣が静かにそう言った。その声は、まるで何度も反芻してきた言葉のように自然で、しかし胸の奥を打つ重みを持っていた。真夏は頷いた。心が静かに震えた。ついにこの時が来たのだ。そう思った。


「来ました。あなたと生きるために」

霧の中でその言葉が溶けていく。真夏の声は震えていなかった。迷いもなかった。ただひとつ、意思だけがはっきりと響いた。風は緩やかに2人の間を通り抜けていく。木々がざわめき、霧がゆっくりと動いた。博嗣は微かに目を細め、その視線に熱のようなものが宿る。けれどその想いはまだ言葉にはならなかった。彼の唇は動かず、ただ静かに真夏を見つめている。真夏もまた、そのまなざしを受けながら立ち尽くしていた。言葉よりも何よりも、目の前に”いる”という事実が胸を満たしていた。

ゆっくりと博嗣が岩から下りる。音ひとつ立てず、地を踏むその足取りには確信があった。もう逃げるつもりはないのだと真夏は理解する。むしろ彼もまた、待っていたのかもしれない。この再会の時を。博嗣の姿が少し近づく。そのたった一歩に、千年分の時が込められているように感じた。真夏もまた、静かに一歩を踏み出す。言葉を交わさなくても伝わるものが、確かにここにある。

あの時、何もできずに別れた人。命をかけて庇い、そして置いてきた人。けれど今、こうして目の前に立っている。千年を超えて、いつものあの場所で。言葉が足りなくてもいい、時間がかかっても構わない。これが始まりだ、と真夏は思った。失ったものを嘆く時間ではない。これから得るものと、生きるための時間を刻んでいくのだ。2人の間にあった沈黙は痛みではなく、祝福のようだった。再会は静かに、けれど確かに果たされた。

博嗣はほんのわずか目を伏せた。それが何を意味するのか真夏にははっきりとわかった。言葉にならない感情がある。再会の喜びも、迷いも、傷も。それらが全て、その眼差しの影に宿っていた。かつてと同じ瞳だった。真夏を最後を見届けたあの日に、震えながら名を呼んでくれたその人の眼差し。その痛みが、今も消えていないのだと気づいた。だからこそ、ここに来たのだ。もう、あの痛みを繰り返さないために。

風が2人の間を抜ける。その風は懐かしさと予感の匂いを含んでいた。真夏はほんの少し微笑んだ。大丈夫と言いたかった。まだ言葉にはならないけれど、そう伝えたかった。自分はもう逃げない。思い出しただけでなく、選び取るために来たのだと。

博嗣は、その視線をそらさないまま、静かに一歩を踏み出した。その歩みは慎重で、けれど確実だった。真夏は息を呑みながら、その一歩を見届ける。次の瞬間、真夏の足元の落ち葉が風でふわりと舞った。まるで道が整えられていくかのように。過去の記憶と今、現在とが少しずつ一致していく感覚があった。

もう、過去ではない。これは「再会」ではなく、「始まり」なのだ。千年前叶わなかったことを、こんどこそ生きて果たすための。

言葉は少なかった。けれど、それでも十分だった。目の前に立つその人が、再び自分の世界に姿を現してくれた。それだけでもう十分すぎるほどに胸が満ちていた。

2人の手が静かに重なった。そして、そのまま、しばらくの間言葉はなかった。静寂が辺りを満たし、先ほど吹いていた風すら、今は吹いていないような気がした。けれど、確かに何かが動いていた。博嗣の中で、長く張りつめていたものが少しずつほどけていく気がした。

真夏は博嗣の手をしっかりと握り返す。過去の痛みでも、懐かしさでもなく、今、この瞬間の”温もり”として。千年前の最後の日。指先がすり抜けてしまった、あの触れられなかった感触が今、ようやく現実のものとしてここにある。

博嗣がほんのわずか眉をひそめた。それは戸惑いの色であり、恐れでもあり、そして喜びにも似た名もなき感情だった。


「お前は全部……思い出したんだな」

呟くように発されたその声には、答えを求めるというよりも自分に言い聞かせるような響きがあった。

真夏は頷く。口には出さずとも、その眼差しが全てを語っていた。博嗣の肩から静かに力が抜けた。長い間背負い続けていたものが、ほんの少し下ろされたように見えた。

ふと博嗣が目を伏せた。風に揺れる長い髪が頬にかかる。その顔に、確かに濡れた光があった。一雫、頬を伝って落ちたものに真夏は目を奪われる。


「……もう、お前を失いたくない」

その声は震えていた。強く、長く生きてきた存在が、心の底から誰かを失うことを恐れている。その感情の重さを、真夏は体で受け止めた気がした。博嗣の瞳が、真夏の瞳を真っ直ぐに捉える。


「私は……あの時、お前を守れなかった。何度夢に見たかわからない。お前の血に染まった姿を、声を、名を呼ぶ瞬間を、何度も……」

その言葉に、真夏の胸の奥も軋むように痛んだ。だけど今は逃げない。もう1人にしない。だからこそ、真夏は小さく笑って静かに答えた。


「でも、今こうして、また会えた。だからもう悲しい夢は終わりです。これからは一緒に生きる夢を見ましょう」

博嗣が息をのむ。その目にまた光が差す。けれど、今度は希望の色だった。

静かに風が吹いた。森のざわめきが戻り、遠くて鳥の鳴く声がする。光が差し、葉が揺れる。止まっていた時間が、再び動き出した。重ねた手を、真夏はそっと両手で包み込んだ。


「夢じゃないですよ。これは、現実です」
「ああ、そうだな」
「俺はあなたと生きるために来ました。だから、これからはあなたも生きてください」

その言葉に、博嗣の目が大きく見開かれる。まるで長い夢から、ようやく覚めたような表情だった。そして、ゆっくりと深く頷いた。


「一緒に、生きよう」

博嗣がそう言った瞬間、風がふわりと2人の間をすり抜けた。沈香と丁子、龍脳の香りが再び立ち上る。光が差し込み、世界は満ちていった。

遠くで笛の音がひとすじ聞こえたような気がした。それはかつて交わした旋律。「もう一度出会えたら、その時は一緒に生きよう」そう願ったあの音だった。

この手をもう離さない。今度こそ終わらない|時間《とき》を生きて行く。心からそう信じられた。もう2度と離れない、そう心の中で誓った。